江戸の内濠・外濠

1620年(元和6年)に徳川家が、「内濠」「外濠」を整備することで、江戸の街の基礎となる土台作りが完了したという人々もいます。「内濠」と「外濠」の完成により、人々の住み分けと、江戸の街の輪郭が描かれたという表現をする人々もいます。山の手地図作成において江戸の街の中心的な存在である「江戸城」が、「内濠」と「外濠」の二重円環を備える事で、人々の住み分けのボーダーラインが必然的に定まり、城下町として、内濠には上級武士、外濠には町人や下級武士が置かれるようになったようです。外敵の侵入を防ぐ為に、日比谷入江を埋め、この事業は大仕事として取り行われたようです。この埋め立て事業には、神田山を削った土積が使用されたようです。江戸の街は、日比谷入江の埋め立てから開始されたという人々もいるくらい、江戸の街づくりには重要な事業であったようです。また、江戸湾の奥地にある僻地に、江戸城建設を試みた、徳川家康の着眼点に関しても称賛を浴びせる人々も多く、日比谷入江を神田山の切り崩しで、埋め立てる事が江戸の繁栄に大きく関わった事は確かでありそうです。山の手地図作成において、かつての日比谷入江が埋め立てられ、江戸城建設が行われた事は、現代の東京の街づくりに大きく繁栄され、街の賑わいに繋がりをみせています。こんな観点から地図を見てもおもしろいですね。