地図から見る明治の東京

東京の地図を見てみると、明治維新の際、明治政府は江戸の建築物を存続させる意識は薄かったようです。唯一、「堀」「道」「緑地」などは、都市を組み立てるには、重要な役目を担っているので、壊す事は行わなかったようです。地方などでも、「城」などの建築物もこわす事が基本でありました。例外として、「姫路城」「名古屋城」「熊本城」は、その美しさからか保存する方向にて残されたようです。明治政府は、近代化東京都市の地図作成上に広がる同心上の交通網に、官庁などの重要な施設を配置し、教育機関、銀行、郵便局などを続々、建設し始めました。建築物は、それまでの和式ではなく、洋風化され、街中は、明治政府の手によって、大きく書き換えられて行きました。また、皇居内の天皇家にも、明治政府は、洋風化を求め、その生活スタイルの多くを西洋化させて行きました。江戸の街は、一斉に西洋文化の嵐に巻き込まれ、その姿を一身させていきました。その風潮は、一般庶民にも引き継がれ、明治の終わり、大正期には、会社員の人々が、自宅に洋間を設けるなどの趣向をもつまでに至った。教育機関内の子どもたちも、そのような明治政府の風潮を受け、洋風ムードに包まれた学校づくりを受け入れていきました。1923年(大正12年)、「関東大震災」の後、眼時政府は、大がかりな「区画整理」を行います。この「関東大震災」は、近代化東京都市の地図作成の中では、東京の街の近代化を一層、早めたといっても過言でないほど、都市開発の中では、大きな転機となりました。その中でも、明治政府が、大幅に力を入れて取り組んだのが、「防火対策」でした。このような「区画整理」と「防火対策」は、明治維新のテーマとなって、東京の街の風景を一層していきました。江戸時代以来の、町人文化や町人の街としての風情や、情景は姿を消し、新たなる「TOKYO」が、創りはじめたのです。